大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和63年(う)219号 判決

本店所在地

大阪市城東区今福西三丁目八番二六号

(旧本店所在地 大阪市都島区中野町一丁目九番一九号)

松二興産株式会社

(右代表者代表取締役 松下吉松)

本籍

金沢市三社町五番地

住所

大阪市鶴見区諸口四丁目八番一号

会社役員

松下吉松

昭和二年一二月二日生

右松二興産株式会社に対する法人税法違反、松下吉松に対する法人税法違反、所得税法違反各被告事件について、昭和六二年一二月一五日大阪地方裁判所が言い渡した判決に対し、各原審弁護人から控訴の申立があったので、当裁判所は次のとおり判決する。

検察官 大口善照 出席

主文

原判決を破棄する。

被告松二興産株式会社を罰金二、八〇〇万円に、被告人松下吉松を懲役二年及び罰金四、〇〇〇万円に各処する。

被告人松下吉松において、右罰金を完納することができないときは、金一〇万円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

被告人松下吉松に対し、この裁判確定の日から三年間右懲役刑の執行を猶予する。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人豊島時夫作成の控訴趣意書、平成元年一月二四日付釈明及び意見書(ただし、控訴趣意を釈明する限度に限る。)記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官大口善照作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

よって、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せ検討して、次のとおり判断する。

一  控訴趣意中、法令の解釈適用の誤り並びに事実誤認の主張について

論旨は、要するに、被告松二興産株式会社(以下「被告会社」という。)及び被告人松下吉松(以下「被告人」という。)の所得金額の計算において、被告人が松本良夫に貸付金名下に金四、五〇〇万円を出金しているが、これは被告人及び被告会社の経営する各ラブホテルで生起する客との紛争解決をやくざである右松本に依頼していたところ、同人から金員借用の申込を受け、やむなく右金員を出金したものであり、これは営業上受けた利益に対する報酬であるとともに、同人から嫌がらせを受けないで営業をするための予防的出費であるから、営業上必要な出金である、従って被告人が右金額を各支出した段階で法人税法上の損金、所得税法上の必要経費あるいは松本の返済意思、能力がないことと被告人が弁済を受けることを諦めた時点で貸倒損失として認定すべきであるのに、原判決はその事実を認めなかったもので、この点において法令の解釈適用を誤り、ひいて事実を誤認し、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである(なお、弁護人は、右松本に対する合計四、五〇〇万円の出資は、被告会社及び被告人の松本に対する営業上の貸付金であり、昭和五九年一一月ころその全額が回収不能であることが確定的に認識されたもので、被告会社については、その時期を含む昭和五九年六月から同六〇年五月に至る事業年度の貸倒損失として損金に計上し、被告人については、その時期を含む同五九年分の貸倒損失として必要経費に計上すべきもので、右四、五〇〇万円の貸倒損失を右各年度のホテル収入金額を基準(売上基準)に配分すると、貸倒損失の被告人分は二、九〇七万円、被告会社分は一、五九三万円となり、従って被告人の昭和五九年の納付すべき所得税額は一億六三二万五、一〇〇円、被告会社の昭和五九年六月一日から同六〇年五月三一日に至る事業年度の法人税額は八、一一九万七、一〇〇円であると訂正のうえ釈明した。)。

しかしながら、原判決挙示の各証拠及び当審で取調べた各証拠によれば、原判示法人税法違反、所得税法違反の各事実は所論指摘に関係する原判示第一の三の所得金額、法人税額、原判示第二の二の所得金額、所得税額の点を含め、優に肯認することが出来る(なお、被告人は原審公判廷では公訴事実を全て認め、又原審弁護人においても、右松本に対する出金の事実は情状面で考慮されるべきである旨の主張に止まったものである。)。

すなわち、原判決挙示の各証拠のほか当審で取調べた被告人(昭和六一年四月九日付)及び松本良夫こと高昌国の大蔵事務官に対する各質問てん末書によれば、被告人は昭和五三、四年ころクラブの客同士として右松本と知り合って以降交友関係にあったが、同人が暴力団関係者であったことから、自己経営のホテルで客とのトラブルが生じた際に、同人にホテルに出向いて貰って解決方を依頼し、その都度、車代と称して一回につき五万円から一〇万円の礼金を渡したことが、昭和五六年に三回位、同五七年に二、三回あり、又同五八年夏ころまでに松本に電話に出てもらって解決をはかったこともあったが、それ以降はそのようなこともなくなっていたこと、このような同人との交際の中で、昭和五六年八月ころ松本から金員借用の申込があったので、被告人はその費途につき特に質すことなく、同人に金一、〇〇〇万円を貸与し(返済期日は同年一二月であったが、返済の督促をしていない。)、続いて同五七年六月に金一、〇〇〇万円、同五八年八月に金二、〇〇〇万円、同五九年春ころ金五〇〇万円と合計金四、五〇〇万円の金員を貸与したこと、松本は二回目以降の貸付に際して前回分迄の返済遅延を詫びつつも新たな借金申し入れをし、被告人においても、殊更前回分迄の返済要求もせず、申し出のままに(ただし、右第四回目については、一、〇〇〇万円の借用申出金額に対し五〇〇万円に限り応じた。)前記各金員の貸付をしたこと、松本は右各金員の借用の際には何れも借用書を差し入れ、そのうち三件分につき、昭和六〇年五月から七月頃約束手形三枚(額面一、〇〇〇万円、二、〇〇〇万円、五〇〇万円、支払期日昭和六〇年一二月二五日、同六一年三月一〇日、同年五月二〇日)と交換し、又被告人は松本からの返済延期の申し入れがあることをもって、同人の返済意思の存在を確信し、以上の貸付についてはいずれも担保を取ることもなく、これまで右手形を取立てに付して督促する等の手段もとっていないことが認められる。

以上の事実によれば、被告人が松本にその都度紛争解決をして貰った際に車代と称する金員を与えたのとは別個に、右各貸付を行ったのは、松本との繋がりが自己のホテル経営に何らかの形で裨益し、爾後もその関係継続を望むという動機によるものであることを窺知し得ないわけではないが、各貸付金の目的、費途に無関心であること、債権確保の方法を講じていないこと、督促にも無頓着であること等の状況に照らすと、このような貸付は被告会社及び被告人の各営業に直接関係があるものとは認められず、被告人と松本との私的な交際による貸付と認めるのが相当である。被告人は前記質問てん末書中の供述では、松本との私的な交際から生じた貸付金であり、自己及び被告会社の事業とは関係ない旨認めながら、原審及び当審公判廷ではこれと異なり、所論に添う供述をしているが、被告人の大蔵事務官に対する昭和六一年三月一九日付質問てん末書中では右貸付金を事実上の貸付である旨主張しながら、同人の検察官に対する供述調書や前記大蔵事務官に対する昭和六一年四月九日付質問てん末書中では理由を示してそれ迄の供述を訂正しているところ、再度、原審及び当審で所論に添う形で供述を変えた理由につき、当審では、執拗な調べに対してなげやりになったため等と述べるのみで他に特別な理由は述べていないのであって、さきに認定した客観的状況に照らし措信しがたい。

以上のとおり、右松本に対する金四、五〇〇万円の貸付は、被告会社について法人税法上の損金、被告人について所得税法上の必要経費ないしは貸倒損失と認めることはできず、右貸付金名下の出資を損金ないし必要経費として認めなかった原判決は相当である。論旨は理由がない。

二  控訴趣意書中、量刑不当の主張について

論旨は、量刑不当を主張し、原判決の量刑は、被告会社及び被告人に対する各刑が重きに過ぎて不当である、というのである。

そこで所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して案ずるに、本件は同伴旅館業(いわゆるラブホテル)経営を業とする被告会社の代表者である被告人が、右会社の法人税を免れようと企て、ホテル収入の一部を除外したり、土地等の売却価格を圧縮するなどの方法で所得の全部又は一部を秘匿し、虚偽の法人税確定申告をし、原判示三事業年度で、合計一億六五四万三、一〇〇円の法人税をほ脱し、又被告人は右会社とは別に個人でも同伴旅館業を経営していたが、所得税を免れようと企て、ホテル収入の一部を除外するなどの方法で所得の全部又は一部を秘匿して原判示二か年分合計一億四、八六二万九、九〇〇円の所得税をほ脱した事案であるが、いずれもその脱税額は高額であるうえ、脱税率は法人税分(原判示第一)に関しては三事業年度平均で約八三・八パーセント、所得税分(原判示第二)に関しては二か年平均で約九三・七パーセントと極めて高率であること、被告人は正当な納税をしたのでは手元に資金が残らず、高額の納税をすることが馬鹿らしくなり、同業者に倣って自らも脱税しようと企図し、売上メモや売上ノートで被告会社経営にかかる「シャンテイ桜宮」、自己経営にかかる「シャンテイパートⅡ」の収入を把握しているのに、実際の収入金額から約二割を除外して公表帳簿を作成することを経理担当者に指示し、除外金額相当分のレシートを廃棄する等して行った計画的犯行であり、又被告人は被告会社の名義で土地建物を取得、転売して多額の譲渡利益を得ながら、売却代金を圧縮し、土地譲渡収入の一部を除外し、被告会社の課税所得及び土地譲渡利益金を過少にするなど悪質な方法で本件各犯行に及んだものであること等にかんがみると、被告会社及び被告人の刑責は重いものというべく、被告会社を罰金三、五〇〇万円に、被告人を懲役二年及び罰金五、〇〇〇万円(なお懲役刑につき三年間刑執行猶予)に処した原判決の量刑も、あながち首肯しえないでもないように考えられる。

しかし、他方、被告人は、本件ほ脱にかかる所得税及び法人税の各本税、重加算税、延滞税の納付に務め、その結果、金融機関からの借入等の方法により、本件三年分の法人税につき、本税分として一億一、〇三九万余円、重加算税分として三、三一一万余円、延滞税分として一、一八三万余円の合計一億五、五三四万余円を完納し、又本件二か年分の所得税分につき、本税分として一億六、五六七万余円、重加算税分として四、七九〇万余円、延滞税分として一、八一七万余円の合計二億三、五五六万余円を完納して反省の情を示していること、被告会社及び被告人の経営するホテルはいずれも昭和五九年以降売上が減少し、昭和六二年八月に被告会社経営のホテルは営業を廃止し、同年九月建物を取り壊し、又被告人経営のホテルは、昭和六二年頃売却し、被告人はラブホテル経営から完全に手を引いていること等をも併せ考慮すると、本件につき被告人に対し懲役二年の刑(三年間刑執行猶予)を科した点はやむを得ないところであるが、被告会社に対し罰金三、五〇〇万円に、また被告人に対し右懲役刑に併せて罰金五、〇〇〇万円に各処した原判決の量刑は、各罰金額の点において、重きに過ぎるものと認められる。論旨はこの限りにおいて理由がある。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により更に判決することとし、原判決が認定した事実にその挙示する各法条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 近藤暁 裁判官 梨岡輝彦 裁判官 片岡博)

○控訴趣意書

昭和六三年(う)第二一九号

法人税法違反 被告人 松二興産株式会社

ほか一名

右被告人らにかかる頭書被告事件について、昭和六二年一二月一五日大阪地方裁判所が言渡した判決に対し控訴を申し立てた理由は別紙のとおりである。

昭和六三年四月二八日

右被告人ら弁護人

弁護士 豊島時夫

大阪高等裁判所

第六刑事部 御中

原判決は、検察官の公訴事実をそのまま認めた上、検察官の被告法人松二興産株式会社につき罰金三、五〇〇万円、被告人松下吉松につき懲役二年及び罰金五、〇〇〇万円の各求刑に対し、右懲役刑に執行猶予を付したのみで、罰金については、いずれも求刑どおりの金額の刑を課した。

しかしながら、原判決には公訴事実の実際所得金額をそのまま認めた点につき法令の解釈適用ひいて事実認定に誤りがあり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであり、更に懲役刑の量刑はもとより、特に罰金刑につき求刑どおりの厳刑を課した点において量刑不当の違法があり、いずれにしても取消しを免れないと思料する。

以下その理由を述べる。

第一 法令の解釈適用ひいて事実認定の誤りについて

原判決は被告法人及び被告人松下吉松(以下被告人松下吉松を「被告人」という)らに検察官の公訴事実記載金額のとおりの脱税があった旨認定している。

当弁護人は、従来もこの種事犯については、所得金額の計算に不満はあっても、よほどのことがない限り、被告人に対して、脱税をした責任上事実としては争わず、情状面で考慮を求めるべきである旨指導し、その趣旨に沿う弁護方針をとってきたし、本件についても同様方針であった上、裁判所が従来の量刑慣行にしたがった裁判をするものと信じていたので、原審においては、松本良夫に対する貸付金名下の出費について、損金ないし必要経費(以下「経費」という)処理をしなかった検察官の処理に不満はあったが、事実としては争わず、情状において考慮して戴くようお願いしたに止まったのである。しかしながら、原審の罰金刑についての量刑が従来の慣行に反し、あまりにも酷に失するので、右松本に対する貸付金名下の出費の問題を控訴審において事実の問題として争わざるを得なくなった。このような理由で一審で事実を認めながら控訴審で事実を争うという異例の弁護となったのでご了承をお願いしたい。

一 そこで、まず、松本に対する貸付金名下の出費に関する被告人の供述を検討すると、

被告人は、

1 捜査(調査)段階では

〈1〉 検察官証拠請求番号(以下「検」という)五七の問答一、二において、

客とのいろいろなトラブルが発生すること、松本が客と電話で話をするだけでもトラブルが解決するなど松本のトラブル処理能力は威大なものがあったこと、同五八年後半以降は松本にトラブル処理を依頼していないこと、その後は被告人が会得したトラブル処理のコツにしたがって、自らトラブルを処理をしていたこと、松本にトラブル処理について金銭の報酬は支払っていないこと、などを

供述し、

〈2〉 同号の問答三において

一、〇〇〇万円の借用証は、昭和五六年八月一二日に同金額を貸したとき貰ったものであり、一、〇〇〇万円の手形は、同五七年六月ころ、返済期限を四、五か月くらい先にした借用証をとって同金額を貸していたものであるが、同六〇年五月か六月ころ松本が「返済が遅れているので手形に書き直す」と言って手形に書き直したものであり、

二、〇〇〇万円の手形は同五八年八月ころ、前同様の返済期限の約束で借用証をとって貸したものであるが、松本が前同様の時期に手形に書き直したものであり、

五〇〇万円の手形は同五九年三月ころ、前同様借用証で貸したが、松本が前同様手形に書き直したものである。

旨供述し、

〈3〉 同号の問答四において

右金員は用心棒代として払ったものではない。

金回りが良くなれば返してくれるしょう。

旨供述していたが、

〈4〉 検六五号の問答九において

松本はホテルのもめごとを解決してくれていましたし、事業をすすめて行く上で、松本氏の力も必要だったわけで、これは事業上の貸付と見てください。松本は五六年に貸した分も返してくれていないし、財産もなく返済する力がない。

返済を督促もできない。

回収不能である。

五九年の貸倒に見て貰いたい。

旨供述し、

〈5〉 検六七号(検察官調書)一三項において

松本良夫さんに貸した四、五〇〇万円については、ホテルの客とのもめ事を松本さんに仲裁してもらったという恩義は感じていますが、松本さんに金を貸さなければ営業が続けられなかったというものではなく、松本さんが資金繰りに苦しいというから私が自分の信念に基づいて貸してあげたものでした。

松本さんからはもうそのお金は返してもらえないだろうとあきらめています。

旨供述しているところ

2 原審公判廷における被告人尋問においては

(一) 弁護人の尋問に対し

〈1〉 ラブホテルという商売はやくざ関係が来て、いちゃもんつけたり、そういうことがしょっちゅうあるんです。

それでちょいちょいお願いしてる間にこれだけ金貸してくれというふうにして自然と出ていったものが、そうなったんです(記録一〇二の一四丁裏)

〈2〉 やくざがあばれたりすると暴れるまでに警察に電話しても、まだ恐喝しておるわけでもないしと言って、事件起きなければ来てくれないんですわ、半日でも一日でも居座っていなおるんですわ、それで松本という人にお願いしたら、すぐ来てくれて電話でも解決つけてくれたわけです(同一五丁表)

〈3〉 そういうふうにお世話になってしまうと断わりきれないんですわ。

ちょっと貸してくれと、手形持ってくるとか、借用証を入れるからと言われたら断りきれないんですわ(同一五丁裏)

〈4〉 (検察官の調べで結局、経費に認められないで起訴されたことについて)あれだけ一年余り取調べ受けると神経的にまいってしまいました。どうでもしてくれと、こういう気持ちになりました(同一六丁表、裏)

(二) 検察官の尋問に対し

〈1〉 (松本良夫には用心棒替りのことをしてもらっていたということですかとの質問につき)

理屈からいけばそういうような結果になってしまったんです(同一七丁裏)

〈2〉 (松本にトラブルを解決して貰った都度謝礼金みたいなものとか、車代という名目で金を払っていたのではないかとの質問につき)

何もしていない、若い衆連れて来た場合には一杯飲んでくれと言って渡すが、一人で来てもらったときにはそんなこともしていない(同一八丁表)

〈3〉 (松本に対して貸した金を返してくれという請求はしてなかったのかとの質問につき)

一~二回言いましたけれども、そのうちに返すがなと、こう言われたらあとはよう言いませんでした(同一八丁表、裏)

〈4〉 (松本のほうもいずれはもうかって、あなたのほうに金を返してくれるということはあてにしていたんではないんですか、との質問につき)

貸してくれと言われて、いや言われん立場になって貸して、それで一~二回請求したけれども、結局借用書を手形に差替えしたりして延ばす一方です。

返してもらっても、もう一週間か一〇日の間にまた貸してくれ言うてくるわけです。

それで私その縁を切りたくてあきらめたんです。

旨供述している。

二 そもそも、いわゆる素人である一般人がやくざに紛争の解決を依頼した場合、やくざに支払わねばならない報酬は相当多額なものとなり、時には紛争の相手方から要求されていた金額よりも多額となって、なんのために紛争の解決を依頼したのか分からない結果となることもあることは公知の事実であり、まして経験豊かな裁判所におかれてはよくご存知のことと思料する。

ところで、被告人がやくざである右松本に同五八年中頃まで客との紛争を度々解決して貰ったことがあるが、解決して貰った都度謝礼はしていないことなどは、前記各供述で明白であり、右松本が合計四、五〇〇万円にも達する金員の借財を被告人に申込んだのは「右紛争解決により、被告法人や、被告人がその営業により多大の利益をあげられたのだから、その謝礼として貰おう、しかしあからさまに謝礼としてくれと要求するのは面子もあるし、金額も多いので貸借という名目で被告人から金を引き出してやろう」と考えたのであろうことは、やくざのやり口やその後の状況から見ても十分推認できるところであるし、一方、被告人としては、やくざに世話になって客とのトラブルが解決し、営業がうまく行っているのに、借財という名目で申込まれた出金を断わることは出来ない。

断われば、それこそ逆にひどい嫌がらせを受けることは疑問の余地がない。

そこで仕方なく貸付金名下に出金したのが、前記の四、五〇〇万円であるから、これは営業上受けた利益に対する報酬であるとともに、松本から嫌がらせを受けないで営業するための予防的出費でもあるから、営業上必要な出金であったことは明白である。

被告人は前記のとおり、検六七号において「松本さんに金を貸さなければ営業が続けられなかったというものではなく」と供述している。なるほど松本に金を貸さなければ即営業停止ということにはなるまいが、営業が続けられるのであれば、営業に必要な金ではなかったとまで認定するのは不当である。営業をよりスムーズに行えるための出金も営業上必要なものである。

三 前記のとおり、松本は借財名下に出金を申込んできているが、その真意は、いわゆる「お貸しくだされ」で、金員を受取った段階で、それは貰ったつもりであって、返済する意思は最初から無かったものであろう。

ところが、被告人の方は借財ということで申込まれた以上、出金する時には弱いながらも返済を期待していた。

しかし、被告人が松本に返済を要求しても言を左右にして応ぜず、松本が借用証を手形に切替えた時点で、被告人は松本に返済の意思も能力もないことを覚り、被告人も返済をあきらめ、その後は返済を要求していない(控訴審において立証予定)。

このような場合には、被告人が前記金員を各支出した段階で法人税法上の損金、所得税法上の必要経費と見るべきか、あるいは松本に返済の意思、能力がないこと、被告人も返済を受けることを諦めた時点で貸倒損失として認めるべきかについては、見解の対立するところである。

松本の返済意思のない借入名下の金員交付要求を詐欺だと見れば、前者と認定すべきであろうし、貸借であったと見れば後者と認定すべきものであろう。

弁護人としても、どちらを正当とすべきか確たる自信はなく、裁判所のご判断を仰ぐほかはない。

しかし、いずれかに該当することは明らかであるから、いずれかの出費とすべきであることだけは明らかである。

四 したがって、前記松本に対する合計四、五〇〇万円の出費について原判決が何らの経費性を認めなかったのは法令の解釈適用を誤り、ひいては事実の認定を誤ったもので、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

第二 量刑不当について

量刑不当については、まず被告人固有の事情ないし、これに準ずる事情について述べ、つぎに税法違反に対する量刑上一般的に考慮すべき事情について述べたいと思います。

一 被告法人及び被告人の脱税額に対する罰金額の割合は高率に過ぎる。

(一) 被告法人の脱税総額は、一億八五四万三、一〇〇円、これに対する罰金は三、五〇〇万円で、脱税額に対する罰金の割合いは三二・二五パーセントであり、

被告人の脱税総額は一億四、八六二万九、九〇〇円、これに対する罰金は五、〇〇〇万円で、脱税額に対する罰金の割合いは三三・六四パーセントであります。

(二)(1) 小職が当事務の事務員をして、国税庁発行にかかる最近二年間の税務訴訟資料一三一号ないし一四九号により、昭和五九年一月から同六〇年一二月末までの間に確定した税法違反事件の判決の骨子を抜粋したものは別添資料のとおりであるが、右資料によると、

法人税法違反事件における脱税額に対する罰金の平均割合いは二五・四二パーセントで

所得税法違反事件における前同様平均割合いは二三・五三パーセントで、

法人税法及び所得税法違反事件における前同様平均割合いは、法人税法が二四・三一パーセント、所得税法が二四パーセントであった。

事犯の内容、裁判官の個性の相違等によって、量刑にバラつきはあるが、その平均数値は、平均的傾向として尊重されるべきであろう。

その意味から考察しても、原判決の量刑はあまりにも苛酷であることが明らかである。

(2) なお、別添資料によると、右割合いが異常に高率なものも散見されるが、そのほとんどはそれなりに理由のあるものであった。

すなわち

法人税では

資料の番号7と64は、いずれも行為者が死亡し、同人に対する処罰ができないので、法人に対する罰金額を多くした事犯であり、

同番号224の1ないし3は、売春関係による所得に対する脱税事犯だと思われるが、それにしても他の事例に比し時々過酷に失する判決をする東京高裁管内の裁判所の判決で、実際はもっと多額の脱税があったと推認されるのに、証拠上これを認定することができなかったような特殊な事情でもあったのかと思われるほど異常なものであり、

同番号286は、行為者に対する懲役刑を課していない場合であり、

所得税では

同番号60は被告人が自由刑についても実刑になっている上、併合罪があるので、同一には論じ難い場合であり、

同番号100は、一九億円余の脱税につき、懲役刑につき執行猶予を付した事犯であり、

同番号114は、被告人に最初から全く納税の意思がなく、宅建業法上要求される法定帳簿はもとより、一切の帳簿も作成しなかったという悪質極まる事犯であり、

同番号121は、併合罪がある事犯であり、

同番号161は被告人に脱税の前科がある事犯であり、

同番号168は、常習賭博による所得の脱税で、これも法人税の番号24と同じような事情が窺われる事犯であって、一般的な他の事犯とは同一に論じ難く、

したがって、本件被告人らに対する罰金刑の量刑はやはり高率に失するものといわざるを得ない。

(三) 被告法人及び被告人の経営していたホテルは経営不振に陥り、事実上倒産と同様の状況にある。

(1) まず、昭和五九年をピークとして、以後売上収入が減っていたことは、検察官が被告人宅から押収し実際売上高を把握できた同六一年検領第二九四〇三号の符三、五各号のノートの記載によって明らかである。検察官は同証拠から起訴対象期間のみについてのみの数字しか証拠として提出していないので、同証拠により弁護人が調査した数字を加えて、いかに売上が減少しつつあったかを説明する。

なお、起訴対象期間中の数字は、検七号において説明されているとおり右ノートの記載金額に多少の補正をしているので、ノートの数字とは多少相違するが、間違っているわけではない。

シャンティ桜宮(被告法人)

〈省略〉

シャンティパートⅡ(被告人)(60.1.法人成)

〈省略〉

(2) 売上の減少傾向はその後も続き、被告法人の収支は、弁一一号証の損益計算書で分るとおり、同六一年五月末終了事業年度の売上は二億二二七万八、八九七円で、前期までの除外利益である特別利益を除いた損益は、一、〇八四万三一二円の欠損で、更に、弁一二号証の損益計算書で分るとおり同六二年五月末終了事業年度の売上は一億五、六九八万六、六四二円に低下し、一、八三九万一、一五五円の欠損となり、これ以上営業を続けても赤字を増やすだけなので、他に売却しようとしたが、最近のラブホテル業界の不振により適当な買主がなく、被告人の原審における供述及び弁一五号証のとおり同六二年八月に営業を廃止するほかはなくなり、同年九月から被告法人が経営していたシャンティ桜宮ホテルは取毀わしてしまった。

また被告人の経営していたシャンティパートⅡホテルは、同六〇年一月三一日、株式会社シャンティを設立して同社に同ホテルの営業を移譲していたが、同ホテルの売上も個人営業当時と同様低下の一途をたどり、設立第一期の同日から同六〇年九月三〇日までの事業年度の八か月間の売上高が二億七、〇二六万五、六〇〇円、当期利益金は一、二〇三万九、四九二円であったが、第二期の同六一年九月三〇日終了年度の一年間の売上は三億五一二万六、七六〇円となり、当期の利益金は僅か二六四万三、六三二円となり、更に第三期は売上が益々低下し、同六二年八月五日までの営業成績は売上高が一億八、六八九万九、〇二五円で損失額は三、一六二万五、七八五円となった。利益がどんどん減り、損失の発生が見込まれたので、同ホテルの土地建物を売却し、会社もつけて相手に譲渡して、被告人は完全にラブホテル経営から撤退をやむなくされた。(ただラブホテル経営許可の問題があるので、被告人が代表権のない役員として登記簿上残っている)(以上控訴審において立証予定)。

右土地、建物の譲渡代金により、銀行借入金の大部分は返済したが、なお被告人には約五億円以上の借財が残っているのが現状である。

したがって、被告法人や被告人の起訴対象年度においては、相当多額の利益はあがったものの、その当時が利益のピークで、前記のとおり同五九年九月ころから急激に売上が逐月低下し、査察着手の同六〇年一〇月当時は既に相当収益が低下しており、その傾向はとどまるところがなく、被告法人及び被告人は結局赤字経営に陥り、ホテルを毀わしたり、他に売却してホテル経営から撤退するとともに、ようやく多額の借金負担を軽くすることができたところであって、事実上倒産したのも同様である。

(3) このような場合は量刑においても考慮すべきで、別添資料の法人税判決例番号二八七の株式会社メールオーダーハウスに対する罰金が、脱税額の四パーセントにすぎないので、その一審、二審の判決書を見たところ、同社が倒産したためであることが判明した(控訴審において立証予定)。

当該判決は、厳しいことで有名な東京地方、東京高等裁判所の判決であるが、それでもそれだけの配慮はしている。

右判決事例と本件は同一ではないが、検挙された後、倒産、廃業のやむなきに至っている点においては大いに類似している。

この点からも量刑に当たって十分ご考慮を戴きたいところである。

(四) 原判決の裁判官が他の税法違反事件において検察官の求刑どおり罰金刑を課した判決が大阪高等裁判所において破棄され、罰金刑が減軽されている。

原判決の裁判官は、昭和六二年九月二九日、アサヒ産業株式会社及びその代表者中村秋造にかかる法人税法違反事件(脱税総額六、三七〇万九、四〇〇円)につき、被告法人に対し、検察官の求刑どおり罰金二、〇〇〇万円(脱税額に対する罰金の割合いは三一・四パーセント)の判決を言い渡したが、被告人控訴により、大阪高等裁判所は同六三年三月二四日、原判決を破棄し、罰金を求刑の八割である一、六〇〇万円(前同割合二五・一パーセント)に減額した(控訴審において立証予定)。

前述のとおり、多額の同種事犯における脱税額に対する罰金の平均割合も約二五パーセントであって、この辺がやはり量刑上妥当なところであると思料される。

この前例から考えても原判決の罰金刑の量刑は重きに失し不当であると言わざるを得ない。

(五) このほか、被告人は、一時的に多額の利益を手中にしたものの、原審で明らかとなったように、その生活は極めて質素で、その住居たるや、これが何億も儲けた人間のものかと思われるほどであります。

このような生活態度や、銀行で借金してでも、早期に延滞税や重加算税も含めた税金税額を納付した納税状況も是非ご考慮戴きたいところであります。

二 税法違反事件に対する量刑上一般的に考慮すべき事情について

1 はじめに

本件事犯は最近における脱税事犯としては中程度の部類に属し、量刑不当の理由として本件固有の情状以外の一般的事情まで申上げる必要はないとも思われるのでありますが、最近の脱税事犯に対する一部過酷にわたると思われる判決の量刑理由が、申告納税制度を誤解し、これを不当に神聖視していることに鑑み、この際申告納税制度重視に対する批判のみならず、この種事犯量刑の際考慮されたい一般的事情もあわせて開陳することと致します。

そもそも弁護人は、脱税事件に対する量刑については、法制のみならずその運用も公平を欠くなど現下の諸般の事情のもとでは、よほど特別の事情のない限り、厳刑を科すことは公平、公正を基本理念とする租税法律主義に反するものであって、憲法に違反するのみならず、刑事法上も著しく公平を失し正義に反すると思料するものであります。

裁判所は、税制が公平、かつ妥当なものであるか否か、法令に基づく行政あるいは検察権行使の運用の実体が公平であるのか、そのほか、国民の対応状況や、租税の徴収と裏腹の関係にある税金の使い方、これに対する納税者の監視可能程度の実態等諸般の具体的事情を考察し、その上で、被告人にいかなる刑を課すのが正義であるかを、裁判官個人の正義感のみを基準とすることなく、社会通念にしたがい、これまでに集積された量刑慣行を尊重し、謙抑主義の下に、国民の権利を保護するための裁判をする責務を有するものであると思料します。

当然ながら何よりも留意すべきことは、裁判官の特別の清潔感、重税感、正義感から生ずる脱税に対する嫌悪感によって裁判をすべきではないことであります。あくまでも社会の実情を基礎として、脱税に対する社会通念の真の姿を検討して、これに基準をおいて裁判をして戴きたいし、また、そうあるべきだと信ずるものであります。

以下順をおって論じたいと思います。

2 脱税犯に対する税制と量刑の推移

(一) 税制の推移(申告納税制度の導入と罰則の強化)

戦前の我国においては所得税、法人税等のいわゆる直接税についてはいわゆる賦課課税制度であって、納税者は一応その所得金額等について申告はするけれども、その申告によって直ちに納税義務は発生することなく、税務当局の賦課処分によって納税義務が発生、確定する仕組みとなっており、その脱税の罰則は罰金刑のみで懲役刑はなかった。

脱税は欺罔行為により国の徴税権を犯すものであるけれども、詐欺罪とは異なるとの理論構成は確定的なものであり、現在に至っている。

ところが戦後アメリカ占領当局の要請とインフレ対策上、昭和二二年の改正で、賦課課税制度から申告納税制度に切替えると同時に罰則にも自由刑が導入された。

ここで注目すべきことは、法万能主義で、脱税に対しても極めて厳しい態度をとっていると言われるアメリカにおいても、脱税犯は詐欺罪が成立することを要件として初めて禁錮刑が課せられるのであって、詐欺罪が成立しなければ禁錮刑が課せられることはなく、自由刑も懲役刑ではなく、禁錮刑なのである。刑の軽重については刑法第一〇条によって明らかなとおり、禁錮は懲役の半分の重さと観念されているのである。

我国は、以下述べるとおり国民の納税意識、法規範に対する国民の意識、納税者の税金使途監視可能性の程度等、罰則との均衡上深く配慮すべき諸般の背景事実においてアメリカに比し格段に劣っているのでありますが終戦後の混乱期であったとは言え、右の背景事情を無視して、罰則についてのみ法制上一挙にアメリカ以上の厳罰を規定するに至ったものであり、法定刑の長期も三年から五年と改正され、罰則強化が一人歩きを始めていることを十分に考慮すべきであると考えるのであります。

(二) 量刑の推移

(1) 従前の判決における量刑

従前の判決においては、脱税犯に対する量刑は厳に失することなく、適正かつ妥当であった。

これは、納税が国家財政を支える柱であることは、戦前、戦後を問わず同一であるにもかかわらず、占領軍である米国の支配、指導のもとになされた昭和二二年の法改正まで、脱税犯に対する法定刑は罰金刑のみであって、自由刑はなかったこと、後記のとおりそれまでの賦課納税制度を申告納税制度に変えた真実の理由は、国家が早く徴税権の行使をすることができるようにするためであったに過ぎないこと、世の中は脱税が一般化して、それがほとんどまかり通っていることや、資産所得に対する課税が軽く、事業所得を含む勤労所得に比し不公平であること、税務行政が必ずしも公平に行われていないことなど、税制や、税務行政等に関する正しい認識のもとに、検挙起訴されるものは脱税者のごく一握りに過ぎないものであり、起訴された者だけを厳刑に処することは、反って公平を欠くものであることなどを裁判所が量刑上考慮されたからであると推量される。

従前、相当多額の脱税犯に対しても、税制や法運用の実体に即した判決をしてきた裁判所が、その後の厳刑判決が言う法の尊厳性を維持する必要などを無視ないし看過したものとは到底思われないのであります。

(2) 最近における厳刑判決の出現

ア 最近における厳刑判決は、東京地方裁判所昭和五五年三月一〇日の法人税法違反事件判決において、行為者に実刑を課すなどの厳刑を嚆矢とする。右判決によると、逋脱率も高く逋脱額が多いというだけではなく、甚だしい証拠湮滅工作を行ったほか、保釈後被告人がにわかに態度を変え不当な否認をしたなど、裁判所の心証を悪くするなど厳刑を必ずしも否定し難い諸般の特別の事情があるのではあるが、問題は同判決が脱税事犯につき厳刑を課すのを相当とした理論的根拠にある。

その理論的根拠は大要次のとおりであった。

〈1〉 悪質な事犯に執行猶予を付することは犯罪と刑罰に関する一般社会の正義観念が損なわれ、法の尊厳性を危うくさせる。

〈2〉 申告納税制度は納税者の良心と良識を尊重して採用されているものである。

〈3〉 申告納税制度は納税者の自主性を重んじる制度で租税法秩序の基礎である。脱税犯はその根幹を破壊するものである。

〈4〉 申告納税制度は、他の納税者の犠牲において不当に利得することを許さず、脱税者は社会一般から強い非難を受ける一方、納税者は主権者として、その使途を監視することができるもので、これが民主主義社会では、「脱税は最悪の犯罪」といわれる所以であり、民主主義のもとにおける申告納税制度の構造である。

イ 右判決の厳刑理由の中心は申告納税制度を重大かつ神聖視していることに大きな特色があり、その背後には、租税制度全般において徴税者側にも納税者側にも我国とは全く事情の異なるアメリカ法的思考があることが窺われ、右判決に同調するその後の厳刑判決はいずれも右理論を根拠としているようである。

3 厳刑判決の不当性

しかしながら、右厳刑判決の理論的根拠には次のとおり重大な誤りがあり、到底容認し難いのであります。

(一) まず、「悪質な事犯に執行猶予を付することは犯罪と刑罰に関する一般社会の正義観念が損われ、法の尊厳性を危うくさせる」旨の説示についてであります。

右の抽象的理論はまことにそのとおりであって、弁護人も全面的に賛意を表するものであるが、これを国民の法意識、法運用の実状が他の犯罪と非常に異なる脱税犯に具体的に適用するに当たって、厳刑に処すべき悪質性の基準をどこにおくかというのが問題であります。例えば、後記のように立法の段階で、所得税では資産所得、譲渡所得などを不当に優遇し、勤労所得に事実上重課するほか、行政の段階では、一方で多角の脱税が発覚しながら起訴されず、一方で少額の脱税が起訴されるという事態は、どう考えても立法、行政にわたって公正さが疑われ、社会正義を損なうこと甚だしいものがあります。それこそ厳刑判決がいう「一般社会の正義観念が損われ、法の尊厳性を危うくさせるもの」であります。

租税というものが国家財政運営資金調達のため納税者に対し、無償で財産の拠出を命ずるという高度に政治的で、かつ国民の権利を害することの甚だしいものでありますから、「悪質性」の基準は単に脱税額、脱税率、脱税の動機、手段、方法等、従来の判決が基準としているものだけで足りるものではなく、租税法自体が公平、公正か、租税行政及び租税検察の運用も公平、公正に執行されているか、検挙起訴された脱税者のうちのごく一部のものの税負担が起訴されない多数の脱税者の税負担とどれぐらい相違するのか、換言すれば査察を受けた納税者は、脱税をしている納税者のごく一部で、浜辺の砂の中の一粒にすぎないこと、そして査察を受けた納税者の所得は根こそぎ把握されているのに対し、査察を受けない多数の納税者は脱税が発覚しても、一部しか把握されていないという実情にあるのかどうか、起訴された脱税者の脱税額と、行政罰を含む納税額を対比して既に被告人はどの程度の税負担を受けているか、脱税犯よりも法定刑の重い詐欺罪の場合に被害が全額回復されていたり、被害以上の弁償がされている場合の量刑の実情と、脱税犯に対する量刑の均衡はどうか、国民一般の納税意識、脱税状況はどうか、納税と表裏一体をなす税金の使途、すなわち税金が正当かつ妥当に使われているかどうか、これに対する納税者の権利の行使の実情はどうかなども考察の対象に加えて悪質性を判断するべきである(前記厳刑判決も国民が税金の使途を監視することができることを厳刑理由の一つにあげている)。最近の判決特に厳刑判決はこれらの点を無視しているとしか思われないのである。

(二) 次に前記厳刑理由〈2〉〈3〉について検討する。

前記厳刑判決は、申告納税制度が「納税者の良心と良識を信用して採用されている」とか「納税者の自主性を重んじる制度で租税法秩序の基礎である」「脱税犯はその根幹を破壊するもの」などと評価している。

しかしながら、我国においては、申告納税制度は戦後のインフレ昂進時における国の徴税上の利益のために導入されたもので、国民の自主性を重んじたからだとか、納税者の良心と良識を尊重して採用されたというものではなく、また、民主主義とは関係がなく、重大視ないし神聖視すべきではない。

そもそも戦後の昭和二二年に直接税を従来の賦課課税制度から申告納税制度に切替えた理由がインフレ対策と国の財政収入の早期確保にあったということを忘れてはならない。昭和二二年に改正された直接税である所得税、法人税各法は従来賦課課税制度をとっていたが、賦課課税制度のもとでは、税務当局が賦課処分をすることによって初めて納税義務者の納税義務が確定するから、それによって強制徴収も可能になるのであって、それまで納税義務者が申告をしていてもそれは資料の提供という意味を持つにすぎず納税義務は確定しないから強制徴収が出来なかった。

これでは戦後まもないころ、日一日と貨幣価値が低下していたインフレの昂進に対応できない。半年遅れの百円よりも今日の五〇円が実質的に価値がある時代であった。また租税を徴収することによって流通貨幣を吸い上げインフレの昂進に少しでも歯止めをかける必要があった。

そのためには税制上どのように対応するのが適切であるかという観点からアメリカの制度を導入して生まれたのが、申告納税制度である。

申告納税制度とすれば、納税者が申告をした時点で納税義務がその範囲で一応にしろ確定する。確定すれば強制徴収ができる。過少な申告であれば、税務当局が更正処分を行うことによって不足分を徴収すればよい。

これが所得税等を申告納税制度に切替えた第一の理由なのである。予定納税制度の導入も、右と同じ理由によるものであった。このことは租税法研究会編集の租税法総論第五章第一節一「申告納税制度採用の経緯」、特にその一四七、一四八頁に当時の税務行政の責任者達によって対談形式で詳細説明されている(当該部分は「忠」氏の説明となっているが、「忠」とあるのは「忠佐市」氏のことであって、元裁判官で、国税庁の調査査察部長などを歴任した税務行政の最高責任者の一人であり、税法学者として有名な人物である)。また、佐藤進、宮島洋共著の戦後税制史(増補版)二頁ないし五頁にも記述されている。厳刑判決は、申告納税制度は納税者の良心と良識を尊重して採用されたものであるとか、納税者の自主性を重んずる制度であるとか言うが、それは単に、美化された建前論に過ぎない。事実と相違し、現実から遊離した空論にすぎない。申告納税制度となったことによって、国の更正、決定権が制約されるというのであれば、厳刑判決の言うとおり納税者の良心と良識を尊重した制度だとか、納税者の自主性を重んずる制度であろうが、申告納税制度に変ったからと言って、国が正当と判断する所得金額を自由に決定する権限には何等の変化もないのである。納税者は申告納税制度に変って得たものは何もなく、かえって記帳義務などの負担が増大したに過ぎない。

反って、所得税は賦課課税制度のもとでは、民間人で税務署ごとに構成された所得調査委員会の了解がなければ、税務署長も所得金額の決定ができなかったのである。

厳刑判決や国税当局は申告納税制度が民主主義の基本であるとか、租税法秩序の基礎であるなどと申告納税制度をあたかも民主主義の権化のように言う向きがあるが、民主主義とは直接の関係はないのである。租税法秩序の基礎は、公平にあるのである。

現に申告納税制度を採用しているのは、我国のほかに、アメリカ、カナダの二か国があるだけである。(元国税庁長官福田幸弘、税制改革の視点二七六頁)。

イギリスにしろ、フランス、西ドイツにしろ、いまだに賦課課税制度を保っているのであるが、これらの国家が民主主義国家でないとか、国民の良心や良識を尊重しない国であるなどとは誰も云わないであろう。

申告納税制度が租税法秩序の基礎をなすものではないことも、このことからだけでもお分り戴けると思う。

重ねて申上げるが、我国において申告納税制度をとったそもそもの理由は、納税者のためではなく、前記のとおりもっぱら国の利益のための制度であることを忘れてはならない。

ただ、申告納税制度がうまく運用される要件として、記帳制度の確立、調査能力の充実などとともに国民の協力があげられているのである(シャープ勧告参照)。

脱税が横行すると、国家財政に困難を生ずることは、賦課課税制度にも申告納税制度にも共通の問題であって、申告納税制度に特有の問題ではない。

(三) 次に「申告納税制度は他の納税者の犠牲において不当に利得することを許さず、脱税者は社会一般から強い非難を受ける一方、納税者は主権者として、その使途を監視することができるもので、これが民主主義社会では(脱税は最悪の犯罪)といわれる所以であり、民主主義のもとにおける申告納税制度の構造である」旨の説示について検討する。

(1) 申告納税制度は不当利得を許さないとの点について

脱税が悪であり、不当利得が許されないものであることは当然であるが、それは賦課課税制度のもとでも申告納税制度のもとでも変りはない。賦課課税制度のもとにおいても資料提出の意味で申告書を納税者が提出する義務を負っていることは、賦課課税制度をとっている西欧諸国においても、かつての我国においても同様である。申告納税制度だからといって、脱税が悪質性を加えたと評価される理由はない。不当利得などと、くだらない判示をするからくだらない議論をしなければならなくなって恐縮であるが、国家予算は決まっているし、課税標準や税率等は決まっているから脱税をした者がいたとしても、他の納税者に脱税分の追加課税があって犠牲を払わされるわけではない。脱税がなかったとすればそれだけ税収が増加することは当然であるが、我国の現状では剰余分は例によって補助金の増額等(後記)国民不在のところで、無駄に浪費されるだけのことである。厳刑理由となるものではない。

(2) 脱税者が社会一般から強い非難を受けるとする点について日経新聞昭和五九年三月三日の朝刊に「はびこる脱税制度にゆがみ」と題し、日経新聞の記者達が、税金の問題を実際に検討して見た結果を座談会形式で発表している記事があるが、「薄れる脱税犯意識」と題し、脱税は犯罪であるという意識が非常に薄くなっていると述べている。

これは他の犯罪についての社会人の意識と比較すると、その理由の一端が理解できる。すなわち、暴行とか傷害であれば、些細なことでも一応犯罪になることは一般的に理解されている。しかし、日常茶飯事的に税務署の調査によって、脱税が発覚しても査察の対象とされたものでない限り、多額であっても納税者も税務職員も犯罪という意識はなく、ただ税務上の不正があったと考えるのみで事案を処理しているところに、租税事犯と他の犯罪とで国民の意識が根本的に異なっているのである。

これは何も一般社会人だけではないのであって、当の報道機関の人達も無意識のうちに、脱税について犯罪意識を失っているのではないかと思われる。

と言うのは新聞がこれまで多額の脱税事件を報じた事例は多いが、査察官の調査でない場合は、奇妙なことにこれを告発、起訴しないことについて疑問も呈さなければ非難もしていないのである。脱税の実情はそんなものと記者達が知っていることを告白するようなものである。

例えば、日本経済新聞に連載され、後に同新聞社から刊行された「ザ・税務署」には、重戦車と機動隊と題し、査察を重戦車にたとえ、資料調査課(国税局の直税部にある)を機動隊にたとえて、徴税の両輪としてはいるものの、「冒頭の社長(査察を受けた社長のこと)は、二億七千万円の法人税を脱税したとして起訴され、いま公判を待つ身。一方、二七億円の申告洩れを指摘されたK氏(相場師是川銀蔵のこと)は、罪に問われたわけではないが、修正申告を余儀なくされ膨大な所得税を支払った」旨記載する(同書三九ないし四三頁)のみで、右K氏を告発、起訴しないことを非難する点は少しもない。査察対象とされていない巨額の脱税はこれ以外にも度々報道されているが、いずれも告発、起訴しないことを非難していない。脱税を厳重に処罰せよとの主張も新聞の投書欄に時々掲載されるが、新聞などが公的主張として評論などの場において、本件のような、いわば雑魚的な脱税を厳刑に処すべしと主張したことは寡聞にして知らない。反って昭和五九年二月一四日日経新聞夕刊の「鐘」と題する評論において「脱税をした人々を非難する気は毛頭ないが、脱税という行為を個人の性向のせいだけにするとコトの本質を見誤る。背後にある不公平税制の問題、累進税率の問題などを税制全般とのつながりで脱税も考える必要があるのではないか」と述べている。前記「ザ・税務署」にも記載されているように国民一般の間にひろく脱税が行なわれ、サラリーマンでさえ、裁判所や検察庁など特殊な部署のものを除いては、なんらかの別口収入がある(同書四三ないし四六頁参照、なお、その記事は事の一端にすぎぬ)現状では、ごく一部の国民にしか、その主張をする権利はないし、それらの人達の多くも脱税をする機会があれば、脱税者の仲間に容易に入るのが我が国の国民性なのである(前掲福田、二三三頁)。前記のように、大口脱税が発覚したときも報道機関は脱税を報道するだけで非難はしない。脱税については時々隠れている脱税を検挙しないことを非難するという程度に過ぎない。

脱税者が社会一般から強い非難を受けるというのは、アメリカのように、そもそも国家の形成がメイフラワー号に乗って入植した人達の契約書の作成から始まった歴史を持ち、国民及び議会が内国歳入庁の納税背番号制度を受入れるなど納税に協力する一方、国も税率その他で国民が義務を無理なく履行できる税制をとり、かつ調査を充実して脱税ができないようにしている国家の国民や、かつての納税意識高かりし時代の西欧諸国において言えることであって、国民の納税意識も国の施策も全く異なり、脱税が一般的に行われ、国民の犯罪意識が薄れている我国では建前に過ぎないのが世間一般の実情である。

(3) 納税者が主権者としてその使途を監視できるとする点について

なるほど憲法の上ではそのとおりである。

しかし、我国のこれまでの実状では納税者が租税法の立法及び税金の使途について関心の程度が薄く、法理念上は国民が主権者であり、その代表者である国会議員が国会で法案の審議、予算決算の審議をすることとなっているが、実際のところは、これまで租税法案の審議は通常形式的で、その審議内容も一般国民には容易に知ることができず、税金の使途も有力者の地盤である特定の地域に対する集中支出や選挙地盤培養のための特定の職域者(農、水産業等において特に顕著)のための補助金等に浪費されても、一般国民はこれを是正する有効な手段を持たないというのが公知の事実であって、裁判所もよくご承知のことと思われる。アメリカにおいて脱税者に対する社会的非難が高い一方で、納税者は税金の使途などを厳しく監視し、不当支出の是正を求めることが実際にでき、またそれが民主主義であり脱税者を非難することができるとされているのと対照的なのである。(前掲福田、二〇〇ないし二〇一、二四〇、三四七頁)

例えば、他国に比し国防費が低く、社会的保障費もいまだ高額に達していない我国において、国債を発行せざるを得ない財政窮迫状態に追いこんだ元凶は、地方交付税と補助金である(前掲福田、五頁)。このほかに政治路線を運営させた元国鉄などもある。地方交付税は地方公共団体を甘やかせて公務員に不当に高額の給与を出すなど不当濫費の原因となり、補助金は中央省庁が地方自治体を統制、支配し、あるいは退職者の国会議員進出の際の票集めの武器であり、地方自治体にとっては補助金交付申請事務によって職員の仕事ひいて職員を増やす理由とすることができ、国会議員にとっては票とカネを集める利権となっている(評論家、山本七平、御時世の研究二〇八ないし二一三頁)。国会議員の党利党略、地盤培養、これにたかる利益団体の私利私欲、加えてこれを利用し、各省庁所管の法案成立、予算獲得、権限拡大、出身国会議員の当選等を図るため各省庁が国会議員や利益団体の要求に容易に応じた結果が今日の財政危機を招いたのである。

これに対して国民は一体何ができたか。何も出来なかった。

最近の税制改革論議の中で、ようやく農業等に対する過保護批判が高まり、農業に対する巨額の各種補助金を打切れば、給与所得者に対する税金は全免できるなどの評論が出るようになったに過ぎない。これまでの現実を無視した建前だけの空論を採用してこれまでの脱税に対する厳刑理由とすることは妥当でない。

(4) 脱税は最悪の犯罪とする点について

単なる言葉の綾であろうが、判決にしては誇大な表現である。

最悪の犯罪ならば、当然死刑を法定刑にとり入れてある筈である。また、国税局も検察庁も多額の脱税を発見すれば、それが何人たるを問わず必ず告発、起訴した筈である。最悪の犯罪であれば、許すべきではない。民主主義であろうがなかろうが、国家が税を財源とする以上脱税が悪であることには変りはなく、その非難可能性の程度は法定刑によって表現されているのであって、最悪の犯罪と言うのはオーバーに過ぎる。

(四) 以上のとおり、同五五年三月一〇日の厳刑判決が厳刑の理論的根拠として判示したものは、すべて不当であって、採用すべからざるものである。

(五) アメリカとの相違

なお、厳刑判決はその理論の全趣旨からアメリカ法的意識が極めて濃厚であることが窺われる。

しかしながら、アメリカと我国では、国民の法に対する遵法精神、徴税機関の公平徹底した調査、税法特に税率が国民の守り得るものかどうか、裁判手続、量刑等において格段の差があるので、アメリカにおける処罰事例を安易に参考とすることは避けなければならないことを付言する。

(1) 国民の遵法精神

周知のとおり、アメリカはメイフラワー号に乗ってやってきた建国の始祖たちが船中で契約書を作成し、法への忠誠を誓約して始まった国家であって、法万能主義であり、国民の権利、義務意識は強く、権利を主張することも義務の履行を求めることも強烈な国民であるのに対し、アメリカ以外の国家、特に我国は完全な法治国家ではあるものの、その国民は文化として、ひとびとは事を荒だてず、理想的には事無かれで行きたいと願っている(司馬遼太郎、アメリカ素描三二四頁ないし三二七頁、三五四頁ないし三五六頁)。アメリカは特に国家も国民も、その国家成立の経緯上、納税については厳しい感覚をもっている。納税だけではない、その他の法律についても厳しく、例えばカルテル防止、取引上の契約の履行あるいは取引モラルの遵守、損害賠償金額(通常の損害額のみならず懲罰的金額が加えられ、その金額は天文学的である)等のみならず、政治家に関する各種規制についても極めて厳格である。田中角栄が起訴されても最高点で当選するような我国とは思考が基本的に異なるのである。

我国において脱税が一般的に行なわれ、国民一般の脱税に対する罪の意識が薄いことなどは、前記「ザ・税務署」その他の著書、報道によって明らかなとおりで、アメリカとは比較にならないほど隔絶しているのである。

例えば、そのことは申告書にも表われている。

申告書を提出する際、我国においては、納税者の署名、押印のみが要求されている。

しかし、アメリカのみならず、賦課課税制度のイギリス等においても申告書には「私の知る限りにおいて、また私の信ずる限りにおいて、これらが真実、公正かつ完全であることを宣誓します」旨記載されたところへ納税者がサインをするように義務づけられている。アメリカでは更に「詐欺罪になるとの条件の下に私は添付明細書及び報告書を含むこの申告書を調べた結果」である旨も記載されている由である(前掲福田、二八四、二八五頁、三二七頁)。

(2) 所得調査の充実度

アメリカの徴税機関は我国の国税庁に相当する内国歳入庁であるが、同庁の権限は強く、その行使は一般的、広範囲に、公平かつ非常に厳格である。

例えば、我国でも一時国税庁が計画した国民の納税背番号は国民のプライバシーを侵害するとして退けられた(イギリス、西ドイツ、フランスも同様)が、アメリカでは国民の権利意識、プライバシーの保護意識が強固であるにもかかわらず、内国歳入庁は国民の納税背番号をあらゆる取引の際に標示することを強制しており国民もこれを受忍している。このように調査が充実していると脱税はほとんどおこなわれず、しかも所得に対する累進税率が低く、高額所得者はそれなりの生活ができる法制となっている。したがって脱税者に対する厳格な処罰も容認される。

ところが、シャープ勧告で調査の充実、所得税率の低下等が公正な租税行政上必要であると要請されていたにもかかわらず、我国では、一旦その要請に従ったものの、その後は国民はもとより国会議員が国税庁に強大な権限を与えることを好まず、所得税の最高税率は世界一とび抜けて異常に高く(国民の税に対する不満をそらすためとしか思えない)、国税庁の調査は十分行われないから脱税が一般的となっている上、査察調査は一罰百戒的で公平に行なわれるわけではなく、かつ、査察を相当とする脱税が発覚しても、査察をしたり、しなかったりする不公平がまかり通っている我国の現状とアメリカとは根本的に事情を異にしている。

(3) 以上のとおりであるから、罰則を適用するについては、アメリカの諸般の背景事情を考慮することなく、単純にアメリカの処罰部分のみを抽出して適用することは、著しく妥当性を欠くのである。

4 その他の厳刑判決理由の不当性

(一) 財政難

厳刑判決の中には、財政難の折柄の脱税は違法性が高い旨判示するものがある。

しかしながら、他国に比し国防費が低く、社会保障費も高額に達していない我国において、国債を発行させざるを得ない財政窮迫状態に追いこんだ元凶は、前記のとおり地方交付税と補助金である。国会議員の党利党略、地盤培養、これにたかる利益団体の私利私欲、加えてこれを利用し、各省庁所管の法案成立、予算獲得、権限拡大、出身国会議員の当選等を図るため各省庁が国会議員や利益団体の要求に容易に応じた結果が今日の財政危機を招いたのであって、その仕末を国民に持ってきて、税法の専門家がこぞって反対する不当に高率な税金を押しつけているのであるから、財政難を厳刑の理由とすることは条理に反するといわざるを得ない。

ところで現在は税の自然増収が甚だ多く、財政難は消滅している。財政難を厳刑理由とする根拠がなくなったが、そもそも景気は変動するものであり、したがって税収も増減するものであるから財政難を量刑の根拠にすること自体が誤っていたのである。

(二) 脱税事犯は納税者の不公平感を招き、納税意欲を減退させる。

一応尤もであるように聞えるが、よく検討すると厳刑理由とはならないものである。

脱税が横行していることは、これまでご参考に申上げた資料のみならず、税務当局が確定申告期前になると相ついで発表する脱税調査実績等によって明白である。

納税者は子供ではない。日常の経験で一般的に脱税が横行していることは、査察が脱税を検挙しなくともよく知っているところである。前記「ザ・税務署」を一読すればよく分かることである。したがって、給与所得者や真面目に納税している事業所得者らが、不公平感を持っていることは事実であるがそれは査察を実施したから生ずるものではない。

反って、税務当局が脱税者を査察し、多額の脱税を検挙したことを知ったとき、快哉を叫んでいる人が多いであろう。

査察を受けた者が、数多い脱税者の中で、まさに雷に打たれたような不運のもとに、これまでの税制のもとでは所得額を超える税金(所得税の場合。法人税も他国に比し高率である)を支払わされた上、裁判所で更に懲役刑や罰金刑に処せられるものだということまで分かっている人がどれくらいいるかは不明であるが、いずれにしても脱税事件が検挙されたという報道は、納税者の不公平感を緩和し、減退していた納税意識を恢復させるものである。

5 脱税犯の量刑に当たって特に考慮すべき事情

脱税犯の量刑については、脱税額の多寡、脱税率、脱税の手口の悪質性の程度、同種前科前歴の有無などが一般的な基準として考慮されている。

しかしながら、量刑に当たっては、その前に税制及び運用が公平か、どうかということが特に考慮されるべきであると考えるので、以下これを検討する。

(一) 税制上の問題点

(1) 所得税法

ア 課税対象について(不公平税制)

我国の税法中、所得税法は課税対象の選択について極めて多くの問題点を持っている。

まず、我国の所得税法は極めて高度の累進税率方式をとっている。累進税率は、そもそも納税者の担税能力に応じて高額所得者に対する税率を高くするというもので、その所得はすべてこれを総合して初めて真の担税力が算定できるのであるから、納税者の所得はすべてこれを総合すべきものとされている。

しかるに我国の現下の法制では、利子、配当所得等資産所得を総合しないことを許すとか、事実上課税しないとか、法律上、事実上不当に優遇し、勤労所得に過大の負担をかけている(前記福田、税制改革の視点一二頁)。

今回の改正でも結局この点の改善はなされなかった。すなわち、利子所得については、これまでは分離課税を選択すればいくら多額の収入があっても収入の三五パーセントの税金さえ支払えばよいし、又、いわゆる〈優〉制度があって、本来は少額貯蓄者の優遇措置であるにもかかわらず、事実上は野放しであったし、特に郵政族と呼ばれる有力国会議員を背景とする郵政省所管の郵便局において甚だしく、税務調査を事実上拒否して資産家がこれを不正に利用することを事実上放任する資産家優遇措置であったし、今回の改正で不正〈優〉利用は防止できるものの、利子所得については、いくら多額の収入があっても、国税、地方税あわせて二〇パーセントの税率で済むという資産所得優遇制度は維持されており、配当所得についても分離課税を選択すれば三五パーセントの税率で済むことになっている。

また株式の譲渡所得については、現在論議中であるが、これまでは原則非課税であって、その他のキャピタルゲインに対する課税緩和もあり、かつてのシャープ勧告が課税ベースを広くして税率を低くしたことにも反してしまっている。

株式の譲渡所得はその所得の把握が困難であることを理由とするのであるが、アメリカなどでは課税の対象としており、行政上対応させようと思えば対応できないものではない。政変前、いわゆる政治銘柄と呼ばれる株式が高騰することは、つとに公知の事実であって、政治家の大きな収入源となっていることや、証券業界の反対に押された政治的考慮によるもので、是認できるものではない。一方いかに高額所得者と言えども、勤労所得は、筋肉労働でなくともいろんな精神的な企業努力によって得られる所得であるのに所得税は五八年まで最高税率は七五パーセントであり、地方税一八パーセントと合わせると九三パーセントというのは、税制として非常識に過ぎる(前掲、福田一〇一、一〇二頁)という批判が高い。もっともである。

税制上、勤労所得が、利子、配当ないし譲渡所得に比べて極めて冷遇されていることは見逃すことのできない不公平である。

現在政府税制調査会(以下、「政府税調」という)及び自民党税制調査会(以下「党税調」という)でこれらの問題がとりあげられ、昨年以来両税調は甚だ微温的ながら利子所得、株式の譲渡所得について課税ベースに組み込むべきことを提案し、政府、自民党も検討しているとのことであるが、遅きに失する上、根本的な是正は望むべきもない情勢である。ただ、本件事犯の年度における課税対象の選択、適用が不当であったことを公けの機関が認めたことは評価に値するものである。

イ 税率について

国税当局や厳刑判決がよく引用するアメリカの税法特に税率は国民の守り得る程度であるのに対し、我国の税率は高きに失し、法律を守ることを一般人に期待し難い。

アメリカの所得税はこれまで最高税率は五〇パーセントであった。しかもその上に建物買入資金を借入れた場合、その建物が何軒でもその支払利息は全額経費として算入されていたから、実質税率は、表面税率よりはるかに低かった。先般、借入金利息の経費算入をセカンドハウスまでに制限した代りに税率を下げ、二八パーセントと一五パーセントの二段階となった。これに対し我国の所得税は昭和五八年まで八千万円超の所得につき七五パーセント、地方税一八パーセント、合計九三パーセント、課税制限で合計八〇パーセントであったが、同五九年の改正で、所得税の最高税率を五パーセント下げて七〇パーセント、地方税一八パーセント、合計八八パーセント、課税制限で七八パーセントとなり、先般の改正で最高税率を六〇パーセントと改めた。そして更にこれを五〇パーセントに引下げる案が真剣に検討されている。いかに本件起訴当時の税率(最高五八年七五パーセント、五九年七〇パーセント)が高きに失して不当であったかが明らかである。あらゆる所得を対象とすることによって課税ベースを拡げ公平に課税することで、もっと税率を下げるべきであることはアメリカの例によって明らかであるが、最高税率を五〇パーセントに下げることによって或る程度違法性は失われ、公平性を恢復することになろう。

違法性を失ったというのは、最高税率が高すぎる(前掲福田、二五二頁)ことは、妥当性の問題を超えて違法性を帯びるからである。最高税率を一〇〇パーセントとするならば、それは公平を決定的に失い、人の幸福な生活を奪うという点で完全に違法であり、憲法違反であることは疑いない。それでは最高税率を九〇パーセントとした場合どうか。

地方税との関係もあるが、一〇〇の所得に対し、九割相当の九〇を税金として徴収することは、いかなる時代においても容認されるところではない(そこでは脱税はやむを得ないものとして容認されるであろう)。

次に昭和五八年まで施行されていた我国の、国税、地方税あわせて八〇パーセントの税金はどうか。営々として働いて一〇〇の所得を得た人から、その八割相当の八〇の税金を徴収することも、公平を失するとともに、その所得を得るだけ努力した人にふさわしい幸福な生活を奪うことになって、やはり違法であると思料する。同五九年以降の七〇パーセントも、僅か五パーセントの引下げにすぎない。やはり違法というべきであろう。正義、公平な法に従うことを誓約したメイフラワー号の人達の後継者であるアメリカは直接税中心税制であることにおいて我国と同様であるが、アメリカではいかなる時代においても、このような高率な、遵守することを強制することのできない税率(実質)を定めたことがないことによっても窺い知れよう。社会保障や国防費が低く、国民一人当りの所得税そのものが先進諸国中最も低い我国の最高税率が、他国を抜きんでて最も高いということは誰が見ても異常である。アメリカの税制改革も前記のとおり建物購入のための借入金支払利息を全額経費に算入することは金持ほど、税制上優遇を受ける結果になっていることなどを理由にこれらの特別措置を制限することなどによって、最高税率を二八パーセントにしたのであるが、最高税率を下げても特別措置の廃止によって全体の所得税収入は変らないと見込まれているのである。ということは、我国でも最高税率を二八パーセントとすることができるということになるのである。

前記のとおり、我国の所得税の最高税率は先進諸国において世界一であり、到底是認できるものではない。

法律は国民が守ることが出来るものでなければならない。租税法律主義は、租税公平主義をも含む。それが民主主義である。多額納税者で知られる松下幸之助氏は「日本の所得税は昔なら一揆ものだ」と喝破したことがかつて新聞に報道された。

全くそのとおりであって、高額所得者は、租税以外の社会的負担も多く、租税だけで所得の八割も課税するというのは、誠に常識では考えられないことである。このことは元国税庁長官の前記福田氏も明言しているところである(前掲、福田一〇一、一〇二頁)。

そもそも他人の倍の課税所得(以下「所得」という)があれば、倍の税金を払うというのが基本的には公平なのである(前掲福田、二五二、二五三頁)。ひらたく言えば「同じ税率」であり、フラット税率とか比例税率とも言う。所得に対して一率に同じ税率で課税しても、他人の倍の所得を得た人は他人の倍の税金を払うことになるのであるが、昔財政学者が、高額の所得を得る者は得た資産を退蔵して社会に還元せず、経済の発展を阻害する(限界効用が減る)おそれがあるから累進税率を適用して強制的に社会に還流させるのが妥当であるとの説を唱えたことから累進税率が適用されるようになった(前掲福田、一〇一頁)が、社会は変化し今日の高額所得者は貯蓄や投資に資産を運用し、退蔵することはなくなったから、右の経済学者の見解による累進税率はその妥当性を失ったのである。しかし長年の慣習で、累進税率適用が社会的に公平であるという社会通念が形成され、他人の倍の所得を得れば、三倍、四倍、あるいはそれよりも高い税金を払う税率の妥当性の有無について我国ではあまり検討しなくなった。

試みに五八年以前の税率で所得の変化に伴なう税率を計算すると以下のとおりとなる。

所得(円) 所得指数 税額(円) 税額指数 所得増に対する税額増の割合

二〇〇万 一 二四万八千 一 一

一〇〇〇万 五 二五五万 一〇・三 二・一

五〇〇〇万 二五 二、五二六万 一〇一・九 四・一

一〇億 五〇〇 七億三、五七六万 二、九六六・八 五・九

右表のとおり、一〇億円の所得を得た二〇〇万円の所得の人に比べ、所得は五〇〇倍であるが、税金は国税だけで二、九六六・八倍もの税金を負担しなければならないのであって、正常負担の限界を超えていることは明らかである。

かようなあまりにも高額所得者に苛酷な税率を課すことは、未開発国ないし開発途上国の国民の思考と同様ないし類似している。未開発国では富者が貧者に金品を与えるのは当然とされる。

これに反し、文化の進んだ欧米各国では個人は平等の権利を持つとされる代りに、富者といえども当然には貧者に金品を与える義務を負わず、税率についても、累進性は低い。

人間の平等、独立、自由を認める程度が高くなれば、それに伴なって義務負担も平等に近づくのが道理である。

(2) 法人税法

ア 税制

法人税については、特にこれまで各種の租税特別措置法により、実質的に租税負担の軽減が図られてきた。

これらの特別措置は、制定当初は時代の要請に応じた正当なものが多いのであるが、なかには税軽減の恩典を不当に拡大し、多大の利益をあげ、担税能力の十分な大企業のみに対する優遇措置となっているものも少なからず存在する。

例えば、資金の豊富な大企業は多数の株式を保有することができ、その配当収入も多額にのぼるが、これには課税されない。

その結果、実質税負担は大企業ほど低く、小企業ほど高くなっているという逆累進になっている(立教大教授和田八束、国税解説、五九、一一、八号一二、一三頁)。法人税についても課税所得額の算定について大企業を優遇し、小企業に厳しい不公平が存在する。被告法人のごときは、なんらの優遇措置も受けられず、所得計算上不利な扱いを受けているのである。

イ 税率

法人税については我国で先般大蔵省と経団連の間で、他国と比較する上で実効税率と実質負担率のいずれが妥当であるかについての論争があったが、大蔵省の主張する実効税率も、我国が約五三パーセント、アメリカ約三三パーセント、英国約三五パーセントでこれも我国が最高である(前掲福田、一四一頁)。

経団連によると実質負担率は我国が約五二パーセント、アメリカ約三二パーセント、イギリス約一八パーセントとなっている(先進各国の企業税制と税負担、経団連、経済資料No.三五〇、一ないし四頁)。

実質負担率は、各国における表面税率のみならず、各種特別措置等によって、企業ごとにその率は異なるから、正確な数字はこれを把握し難いけれども、被告法人のように各種特別措置の恩恵を受けられない法人の実質負担率が先進各国中最も高いランクにあることは疑いない。

今回の改正で税率を下げる由であるが遅きに失している。

(3) 不公平税制に対する批判の噴出

今回の売上税(仮称)創設をめぐって、不公平税制に対する批判が一気に噴出した。まさに百家争鳴である。

当弁護人が何年も前から、この種事犯の弁護において主張してきた問題点が新聞、雑誌、あるいはテレビ等にもとりあげられ世人の関心を引いてきたことは売上税のもたらした思わぬ収穫である。

我国の税制には、どのような不公平なものがあるかという点について論じられた単行本の一つとして、富岡幸雄教授著の「マル査の博士大いに怒る」と表題のネスコブックがある。

所得税にしろ、法人税にしろ、いかに不公平な税制がまかり通っているかがよくお分り戴けると思う。御一読戴ければ幸いである。

(二) 税法運用上の問題点

国の税務行政は公正を欠き、ひいて租税検察、司法もその影響下にある。

国税の税務調査を担当する職員も、租税検察を担当する検察庁の所員も極めて不足している。

税務調査を担当するのは、まず普通の調査が各税務署及び国税局の調査部(小規模国税局では調査課)によって行なわれ、大口納税者あるいは相当規模の脱税があるのではないかと疑われる納税者については国税局の資料調査課あるいは調査部内の担当課によって特別の調査(強制調査ではないが、事実上それに近い調査が数人の担当者によって行なわれることが多い)が行なわれ、相当規模の脱税の嫌疑濃厚な納税者について査察官による強制調査が行なわれるというのが一般的な調査方法(右区別は一応のもので、実際上は入りくんでいる)であるが、税務職員は一般的に不足しているから、一般の納税者については、二、三年ないし数年に一度の調査が行なわれるに過ぎず、査察の対象となる納税者は極めて少数(昭和六〇年はこれまでの最高であるが、それでも全国で二五五件を査察し、告発は二〇一件に過ぎない)である(日経六一、六、七)。

また検察庁も、職員の絶対数が少ない上、租税についての専門的かつ実務的知識を持つ職員はほとんどいないから、検察庁単独で脱税犯の検挙をすることはまず出来ないので、検察庁が脱税事件を検挙処理する際は、査察官との共同捜査となるのがほとんどである。

こういう事情のほかにいかなる事情があるかについては、あえて論じないが、いずれにしても、多額の脱税が判明しても納税者に修正申告をさせるだけで査察の対象とせず、したがって検察官に対して告発もなされず、検察官も起訴しないから裁判所の裁判を受けない事例も相当あるようである。

周知のとおり税務当局には守秘義務があるという理由で、右のような多額の脱税事犯でありながら起訴もされないままになっている事案は外部に洩れ難い。

しかし、厳重な守秘義務の壁から洩れて新聞に報道された事例で弁護人が知り得たものだけでも、関東地方では読売新聞昭和五九年八月二七日朝刊(関西版、以下同じ)に掲載されている「タイトー」の約五〇億円の所得及び留保金約六〇億円の法人税の不正過少申告(なお同社は五四年にも約九億円の申告洩れがあった旨報道されている)、日本経済新聞同六〇年一〇月一日朝刊に掲載されている「コモドール、ジャパン」の約二五億円の法人税の不正過少申告があり、関西地方では朝日新聞同五八年五月二日夕刊に掲載されている是川銀蔵氏の約二八億円の所得税の不正過少申告、サンケイ新聞同五九年二月五日朝刊に掲載されているサラ金業者の約一六億円の所得税の不正過少申告がある。これらの報道はいずれも事実であって誤報ではない。

そのほか東京地裁で同六〇年三月二二日判決のあったいわゆる誠備事件の加藤にかかる所得税法違反事件では、判決において政、財、官界の顧客グループに脱税容疑のあることをほのめかしている(判例時報一一六一号)(週刊新潮六〇・四・四号一四〇頁、読売新聞六〇・三・二三参照)が、これらの容疑者の取調べは行なわれていないことになっている。

また最近の報道をとりあげると、同六一年五月二〇日サンケイ新聞夕刊によれば、武蔵野学院理事長がリベートなど約三億四千万円の所得隠しをしていて、追徴されているとのことである。これも告発起訴されることなく税金の追徴だけで終っている。

同年六月一九日毎日新聞朝刊には、かつて脱税で処罰を受けたことのある佐川急便グループの多額の脱税が報ぜられている。うち京都の佐川印刷のみについては告発されている(読売新聞同月二〇日)が、他の法人については告発されなかった。

ほかに税務当局が手を触れたがらぬものに、政界、財界大手、官界、同和などがある。

その詳細は説明するまでもなく、日常の報道などを通じて裁判所にも顕著な事実であると考える。

厚い守秘義務の壁から洩れてくる事案だけでもこのとおりであるから国税当局が査察事犯として処理するか、その他の調査事案として処理するかは全く、その胸三寸にあるように見える。

この恣意的処理に基づく不公正が最終的に事実上司法の段階にまで及んでいることはいうまでもない。

こういうことは、例えば殺人事件であり得ることであろうか。我国においては絶対あり得ないことである。ある者が殺人を犯かしたということが分かれば、身分の高下その他いかなる事情があっても殺人事犯として取扱い、犯人は被疑者として取調べを受け、然るべき処分がされるのである。

もし、これを放置するようなことがあれば、もとより世論も沸き返るであろう。

このようなことは何も殺人罪のみではない。他の刑法犯はもとより事実上野放しの食管法違反さえ、事が公になれば、何らかの刑事手続を経て、例えそれが罰金刑なり、起訴猶予処分にしても然るべき処分はある。かつて商社の丸紅が問題となった。しかし、脱税犯については脱税が明らかとなり、査察事件として調査すべきことが判明しても、その措置をとらないで済ませるという処理をしていることが前記の事例でお分り戴けたと思われる。当局がことさら不公平な処分を図ったとは思わないが、脱税犯の処分が現実に極めて不公平であることは明らかである。

裁判所はこの事実を直視して戴きたい。

所得に対する租税の割合いが八割に達していた当時の脱税事件で、しかも右のように起訴されるか否かについて公平を欠く処分がなされているにもかかわらず、あえて起訴された者に対して厳刑を課すことは、裁判所が知らない間に昔の悪代官の役割を演じることになるのではありますまいか。

6 その他の考慮すべき事情

(一) 査察を受けた者とそれ以外の者との税負担について

査察を受けた納税者の税負担は、その他の納税者に比較して極端に重く、実質的に大きな処罰を受けている。

国税局の査察を受けた場合は、所得を徹底的に調査され、厳格な法適用のもとに、本税はもとより重加算税、延滞税等も徴収される。所得税の場合にはこれの税額の合計は所得額に近いか、これを越える場合も珍らしくない。一方査察以外の調査を受けたに止まる納税者(これがほとんである)は、税務当局の手不足のため、十分な調査を受けず、脱税をつかまれても、ごく一部で済んでいる実状下にある。

査察を受け起訴された被告人の実際所得額と、それまで税務署の調査を受けて認定されていた所得額とに格段の差があることは裁判所におかれてもこの種事犯の審理を通じてよくご認識戴いている公知の事実と思います。

ところで、査察を受けた者は、最高の昭和六〇年においてでも合計二五五件に過ぎず、全納税者から言えば、砂浜の一粒の砂ほどのものであり、前記福田氏の言によれば「査察は一罰百戒で社会全体の申告水準をあげるためにやるものである」(前掲福田、二八九頁)と言うことになっている。

社会全体の申告水準を高めるために査察が有用であるということは十分理解できるが、一面において百人の脱税者がいるのに、一人だけに高額の所得税が課せられた上、刑事処分まで受けるという事実は事情として刑罰の面で考慮すべき事由である。

(二) 国民の犯罪者に対する処罰感情について

読売新聞六一年一〇月一三日の朝刊によると、総理府が犯罪者に対する処罰の世論調査をしたところ、厳罰よりも温情で対応すべきだという意見が六〇パーセントを占め、厳罰主義をとるものは二五パーセントに過ぎなかったとのことである。世論調査については、被調査者が身構えて本音を告げず、建前論で答える場合もあるから、調査内容によって、その正確性について検討を要するものもあるであろうが、本件のような、犯罪者に対する処理をどうすべきかというような問題については、被調査者も本音で答えていると思われるので、右世論調査の結果は信用すべきものであろう。我国も国民性は、司馬遼太郎の言うように、なるべく事を起さず、出来る限り穏便な方法で事案を処理する文化を身に沁み込ませ、それが体質となっている(いわゆる五、一、五事件で、犬飼毅が反乱軍に対し「話せば分る」と言ったのが日本的文化であり、この言葉を聞き入れない体質を持った陸軍は消滅した)。そして、これまで行政も司法も、その体質の下に事案を処理してきて何の不都合もなかった。反って今日、我国の治安が保たれ、経済発展の基礎となったのは、この日本的体質によるものであるとの積極的評価さえなされている。

アメリカのようにギスギスした権利主張の世界で、弁護士なしには暮せないような社会とは違うのである。

裁判所においても、右世論調査の結果も十分尊重されて量刑をしてくださるようお願いしたい。

三 結び

前記のとおり、本件事犯は不当に高率な税率であり、被告人のような勤労所得者(事業所得者も勤労所得者である)に不利益な不公平税制、不公平行政下の事犯であります。

このような事犯に対し、これら不公平に何らの批判も加えることなく被告人らに厳罰を加えることは、不公平立法、不公平行政を司法が追認することになります。

立法、行政に不公平があっても、司法がこれに黙していたのでは立法、行政は改善を致しません。議員定数問題でもこれは明らかです。

司法が真の力を発揮して、立法、行政における前記不公平を考察して量刑されるとともに、被告人が質素な生活に甘んじて努力してきたこと、被告人らは一時的に利益はあげたが、査察後事実上倒産状態に立至っていることなど被告人らにとって気の毒な面もご賢察戴き、特に罰金刑については原判決を破棄して妥当な量刑を賜わるようお願いする次第であります。

以上

法人税法違反

金額は千円単位(千円未満切捨)

〈省略〉

所得税法違反

金額は千円単位(千円未満切捨)

〈省略〉

法人税法及び所得税法違反

金額は千円単位(千円未満切捨)

〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例